正確な時計は必要か? (2004.12.5)
 25年ほど愛用した時計がおかしくなって来た。正確に遅れたり進むのなら良いが、時々突然止るから困る。「何て今日は仕事がはかどるのだ」、と思ったら時計が止っていた。
 そこで最新式の電波時計を購入した。ちょっと厚いのが気になるが、秒針までピタリと合うのは気持ちが良い。ところが時間に対する許容度が今までとまるで違う事にほどなく気付いた。例えば、「10時から始めましょう」、と決め9時59分頃に始まりそうになると、「まだ1分あるよ」と言ってしまう。「1時に電話します」、と言えば10秒と違わずに電話する。公共の場にある時計が狂っていようものなら、「あの時計、1分進んでいるよ」と余計な事まで言ってしまう。
 あの人は時間に正確な人だと思われると、きっちり時間を守らなくてはならなくなる。時間を守ると言う事は、それだけ余裕を持たなければならないから、誤差を許容するより時間ロスが大きい。
 従来私の時間に関する許容誤差はプラス・マイナス5分であり、その程度が一番合理的だと思う。正確な時計が一つ身近にあればよく、持ち歩く時計は月差30秒で十分な気がする。 

  魔もの (2004.12.5 原作1972)
 父親の書いたものが見つからないと書いたら、どう言う訳かひょっこりそれが出てきた。「俺のも載せろ」と言っているような気がするので、転載する事にする。(一部割愛、修正。原典 大崎電気株式会社 社内報)
魔  も  の
関 本 忠 一
 少々時代がかつた話で恐縮ですが、私の母は生来のお転姿娘であつたらしく、娘時代は御用商人のご内儀に行儀見習いに預けられ、箱枕を頭に結びつけ、足を結わえて眠る訓練を受けたくらいらしいのですが、私共は言葉も行儀もやかましく育てられました。
 その母から『女は魔者』と教えらました。小学の教師から女子組に用事をいいつかり、その時一斉に小悪魔達に見つめられてポウとなり、用事も忘れ笑声を背に浴び恐怖心を抱いたことや、質実剛健で名の通った中学でも男女七才にして席を同じうせず、と教えられ、中学の帰途その手の悪魔達に声を掛けられ逃げ帰った事もありました。
 然し早稲田鶴巻町の米屋に下宿していた時代、お向かいの糸屋にいた年頃の悪魔と戸の明け閉めの度に顔を合わせ、この悪魔に次第に魅せられて来ましたが、幸か不幸か糸屋が引っ越したので笑顔で淋しく別れる結末に終わりました。
 姉の下級生を紹介されて、女子医専の記念祭と自分の学校祭で招待状の交換をしているうち、叔父の家に彼女の写真を落として来て早送国元の両親に注進されたこともありました。
 親父が生前決めてくれた現在の妻を娶ってみて、母の「女は魔者」といった言葉に偽りがあるように思われてもきましたが、それから40年も経つ現代の世相を見ますとウーマンリブとか、捨て子、虐待児或は赤軍の永田洋子など、母の教えにも一理はあったのだと感ずることもありますね。
 時折母のスパルタ教育の数々を懐かしく思い出しはいたしますが、今の私は女性に対し全く失礼な言葉であると思っている昔話です。

  なぜこんな物を書いているのだろう (2004.10.23)
 幸いな事に非常に忙しい日々を送っている。もう少し儲かれば言う事は無い。暇で儲かるのが理想。何故か忙しいと、どうでも良い事をやりたくなってしまうのは昔からの困った癖だ。
 さて、なぜ私がこのサイトを立ち上げたか、不思議に思っている人がいるようなので説明する事にしよう。別に自分の信条や思想を赤裸々に公開したいわけではない。(そんな高尚なことは全く書いていない) 日々の記録を残し、人生を緊張させているわけでもない。何となく書きたくなってしまうだけのこと。
 ある人のサイトでこんな事が書いてあった。「情報の発信はストレスの発散である」正に我が意を得たり。おっしゃる通り。このような自分の都合だけで人様に読んでいただくのだから、多少は面白く、少しは役に立つ情報を書こうとは思っているのだが、文才の無いのを嘆くばかりだ。
 数年前から営業用に自分のサイトを立ち上げねばならないと思っていたものの、まとまった時間が取れない。そのような折に、ぎっくり腰をやってしまった。肉体労働はおろか、外出もままならない。どうせ仕事にならないのだからと、5日間懸かりっきりで何とか形にしたが、気の向くままに作ったので、メンテが大変やりにくい。今さら整理する時間も無く、増築、増築のため傾斜地にある温泉旅館さながらである。。
 家人はさっぱり感心してくれないが、私の死後はこれを作ったありがたさが身に沁みるだろう。彼らに心あらば故人の思い出に、とか何とかで私が書き残した物を縁者に配ってくれるだろう。その時、これをプリントアウトしてステープラーでガチンと留めればそれで完了。何と深い残された者への思いやりであろうか。
 私の父親の時は大変であった。社内報に載った割と良い随筆があったので、それをまとめようと思ったものの、探すのが一苦労だった。拙文の限りでも、この世に私が生きた証とでも思ってもらえるだろうか。笑われるだけか?

  読み違い、勘違い (2004.8.20)
 このところ忙しく、ちょっと硬い部分の更新が続いたため、また軽い話をしたくなってきた。
私は乱筆だった事もあり、20年以前からワープロのお世話になっている。それ以降かなりでたらめな日本語を使っていたことに気付き、唖然とした。江戸っ子ではないのに(今でも墓は浅草の近くだから、そのまま定住していれば生粋の江戸っ子)、「ひ」と「し」の区別が付かない。「必要」がさっぱり出てこないので、この読みはひょっとすると「しつよう」ではなく「ひつよう」ではないかと初めて気付いた。当地には「七十七」という銀行があるが、いつも「ひちじゅうひち」と打ってしまう。
 東北のお年寄りは「い」と「え」を区別しない人が多いようだ。どうもその中間の発音で共用しているように聞こえる。「越後の苺」のように正確に言い分ける場合以外は特に不便はない。
 子供の読み違えは結構笑える。「青年の家」を「あおねんのいえ」と言ったのはかなり昔の話。高校に入学し、"Open"を「オペンって何だ?」と言われたときは、思わず口をあんぐり。血は争えないもので、私も20代の頃「万年青」を「まんねんあおって何だ?」と言ってしまい、母親から「ばーか、大学まで出ているのに」と大笑いされた。
 高校時代、興味津々を興味深々と思い、女性宛に書いてしまったが、相手はそれとなく教えてくれた。良い人だった。今のかみさんなら「馬鹿ねー」とやられてしまう。
 最近割と名の知れた政治家が「言質」を「げんしち」と言っているのには驚いた。ある程度偉くなってしまうと、誰も教えてくれないのだろう。だから子供には、どんなに偉い人が言っても頭から信用せず、つまらない人が言った事でも馬鹿にしないようにと言っている。西澤潤一先生の講演でも同じような事を聞いた。高名な学者の書いた本でも間違いがあるとのこと。
 今でも思い出す勘違いの最高傑作は、生け花を教えている上司の奥様のお仲間に、華道関係を「花柳界」と思い込んでいる方がいたそうだ。「私ども花柳界の一員といたしましては、」とやるそうで、それなりの地位があり今さら言えないとのこと。
 まあ、このくらいにしておこう。こうして書いていても、私自身の間違いだってまだまだたくさんあるはずで、どこかで大笑いしている人がいるかもしれないから。 

追記
 これは好評なので、思い出した時に追加する事にした。
2004年10月12日 本物の椰子の木を見た娘、「家の近所にあるのと違う」「???・・・・・そりゃ、棕櫚(シュロ)だ」

ご近所のおじいちゃん娘に「○○ちゃん、おめでとうございます」
娘「はい、ありがとうございます・・・・・ン???・・・・アッ、あけましておめでとうございます」 

上野の銅像を見た子供「アッ、ウエノ・サイゴウドン」

 "European Eyes on Japan" 日本代表?となる  (2004.5.12)
 2003年の夏、「日本文化をヨーロッパに紹介しているプロジェクトがあり、日本の家庭を撮影している。協力してくれないか」と言う話が舞い込んだ。
 8月22日、オランダの写真家、Bert Teunissen氏来宅。物静かだが眼光の鋭い芸術家。撮影は居間でいつものままに、と言う注文。これはある意味助かった。かたづけたり、身繕いをする手間が省ける。Teunissen氏は自然光だけで撮るそうだ。拙宅の居間は北側にあり少々暗く、家族写真を撮るには狭い。南側のより上等な客間に撮影場所を変更するのではないか、という淡い期待はあっさり裏切られ、しばらく部屋を眺めていたが、簡単に撮影位置と人物の配置を決めてしまう。背面に窓があり完全に逆光となる位置で、私なら絶対に反対方向から撮るかストロボを使う。この位置で良い写真が撮れるのかと内心訝った。
 送られてきた写真を見て驚いた。全員の顔色も自然で細部まで写しこまれ、その上に背景のハイライトの部分も目立たない。広角レンズを使い一度試し撮りをしただけで決めるとは、さすがプロの技と感心した。Bert Teunissen氏撮影
 「笑わないで」、と言う注文が付いたが、私が写すスナップよりも自然な表情だ。子供たちにカメラを向けるといつも笑い、意味の無いVサインを出し日常の表情がなかなか撮れない。家族全員が畏まり、しかも机の上はいつものままと言う写真は、たぶん自分では撮る事は無いだろう。非常に貴重な1ショットである。
 先日写真集European Eyes on Japan, Japan Today 6が送られてきた。撮影技術は申し分ないが、この被写体が日本を代表してしまって良いのだろうか?
 約90枚の写真が載った写真集は実にすばらしい物だった。Teunissen氏は撮影条件の悪い家の中に踏み込んでゆき、住む人とその日常を映し出している。そこにいる人の毎日と、人生さえ想像できてしまう。我が家はどう見られたのか、ちょっと心配にもなる。他の写真家が撮影した物も興味深い。日本に居るから気付かずにいて、改めて切り取られるとハッとするような世界が日本にあった。
 撮影をしてくださったBert Teunissen氏、企画推進をなさっているEU・ジャパンフェスト日本委員会の皆様、この企画を仲介なさったラ・サール修道会のBr. Philippe Lapointeさんのおかげで貴重な体験をさせていただきました。感謝の意を表し、写真展が盛会であることを祈ります。
EU・ジャパンフェスト日本委員会
http://www.eu-japanfest.org/

余話
 撮影場所の提供はなかなかウンと言ってくれるところが無く、まわりまわって家まで来たのである。私に振ったある奥様からは国際親善のためにも協力しろと圧力をかけられ、私は深く考えもせずおもしろそうなので二つ返事で引き受けたが、良く考えてみると家内の了解を取っていない。潔癖な奥さんなら居間にカメラが入ることを拒絶するかもしれないが、その心配は無かろう。のどかな家内と子供たちなら楽しめると勝手に憶測。事実そうだった。
 写真集European Eyes on Japan; Japan Today 6 で他のご家庭を見ると、我が家が一番散らかっているような気がする。多少は綺麗にすべきだったか。
 思わず笑ってしまった一枚がある。スローシャッターだからテレビがはっきりと写っている。高校野球決勝戦、ダウビッシュ投手を擁し、東北勢初の全国制覇が期待されたが、惜しくも常総学園に破れた試合。その8回裏、仙台の東北高校攻撃中。4対2で負けている。2アウト、2ストライク、ランナーなし。土曜日、多くの仙台の人はテレビに釘付けになっていたその瞬間。この家の人は気もそぞろだったと思う。猫だけがごろりと横たわっっているのが可笑しい。 
追記 (2004.8.20)

 せんだいメディアテークで写真展を見てきた。すべて写真集に掲載されたものなのに、大きさが違うだけでこんなに印象が違うものかと驚いた。解像度から情報量を計算すると大して違わないと思えるのに、大きな写真は本よりはるかに雄弁であった。
 笑顔がなくてもモデルとなった人に向けらた眼は優しさにあふれ、不特定多数に向けられた眼は、その人たちがどんなに楽しそうであろうと、寂しげな情景を写している。写真家と被写体との関係が映像にはっきり現れることを初めて知った。プロの技なのだろうか、それとも今まですべて見過ごしてしまったのだろうか。

  ハリーウィストンを買う?  (2004.5.11)
 長年苦労をかけた(無論外交辞令)女房に何かプレゼントしなければならないと思ったことがある。数万円の投資で私に対するサービスが向上するなら安いものだ。
 宝石ならハリーウィストンと教えてくれる友人がいた。(余計な事を) 恥ずかしながらハリーウィストンなんて聞いた事も無い。ネット上で調べてみると、最高級ブランドの一つで、芸能人の誰やらが誰やらに婚約指輪としてプレゼントした、なんて情報も流れている。数百万円はするらしい。こんな物を買ってやったら我家の財政は破綻する。
 どうせ買えないのだからとシュミレーションをしてみた。 まず店に行った時、店員から馬鹿にされないよう身だしなみを整えなくてはならない。家内も私もほとんど着たきり雀なので、それらしい服を新調しなければならない。家内は美容院に行き最新の髪型にし、足元も見られるから高い靴も買わねばならない。いつものべらんめえ口調も直す訓練もしなければならない。車で乗り付けるなら8年物のトヨタイプサムでは恥ずかしい。こう考えをめぐらすと、こんな面倒な手続きをしてまで家内が欲しがるはずが無いと容易に想像できる。
 試しに「ハリーウィストンの指輪買ってあげようか?」と家内に言ってみる。即座に「それならグランドピアノ買って」と来た。置く場所が無いからと即却下。(お金も無いが)
 我家の女性方は有難い事にブランド志向がまるで無い。娘は私が作業用にホームセンターで買った800円の防寒着をまとって平気で学校に行く。小学校では卓球部に入っていたが、「これで良いよ」と100円ショップで購入した、玉まで付いて2本セットのラケットを使っていた。45円くらいのラケットだ。
 家で一番ブランド品を身に付けているのは、私かもしれない。キーホルダーやベルトにはCDとかCE・・・・とか書いてある。当然全部もらい物だ。

  星に願いを  (2004.5.8)
 澄んだ星空は神秘を湛え、ロマンを秘め、飽かずに眺め続ける魅力がある。
中学1年の時、地蔵峠(長野県松本近く)で真夜中に見た満天の星空は、今でも鮮明に記憶の中にあり、未だにそれ以上の星空を見たことが無い。中学の多感だった頃は星空を見上げ、己の存在の小ささを嘆き、つまらない事をくよくよ考える事を馬鹿馬鹿しいと本気で思ったりした。
 一昨年のしし座流星群の時は、残念ながら曇り勝ちで全天の1/4も見えなかったが、朝方3時から4時まで粘って100以上の流れ星を観測できた。 夜空に一瞬流れる閃光、考えてみれば花火の方が余程綺麗だ。それでも何故か流れ星には感動してしまう。宇宙の神秘に触れたためだろうか。
 2003年は火星の最接近があり、天体望遠鏡を衝動買いした友人もいる。20年以上昔に天体望遠鏡を買い、火星を覗いた事がある私にはわかっていた。アマチュア用の天体望遠鏡では火星は点にしか見えず、何倍に拡大しても点は所詮点。そんな小さな天体望遠鏡でも土星の輪が見えた。自分の望遠鏡で見えた土星の輪、何故かとてつもない感動だった。
 多感な頃は過ぎたはずなのに最近また星空に見入ってしまった。ハワイで時差ぼけのため真夜中にホテルのベランダで空を見た。北斗七星とおぼしき星座を見ながら北極星を探そうとすると何かおかしい。オーシャンビューの部屋が北向きのはずが無い。北斗七星と見紛うた星を見つめていると、「アッ」と突然ある星座を思い出した。本でおなじみ、有名な割りに日本では良く見えないさそり座。それが手の届かんばかりの距離に輝いている。ただそれだけの事。残念ながらうまく説明できないが、ただそれだけの事で私の魂は天空に飛んで行ってしまい、何時までもさそり座を眺めていた。
 流れ星が流れている間に願い事を唱えるとそれが叶うと言う。しかし、経験するとそれはほとんど不可能だと理解できる。流れ星が流れるのは高々数分の一秒。流れ星を見てから願い事を唱えても間に合わない。流れ星に願いを込めるなら、流星群の見える日に呪文のように願いを唱え続けるのがコツだ。そのうち流星が現れ、流れ星に願いをかけた事になる。 
 私の願いは何時だって楽して幸せに暮らせるようにと言うことだから、まあ今のところ星にかけた願いは成就されている。

  宮沢賢治の人と作品-文芸評論に非ず  (2004.4.18)
 小学校の頃、担任の先生から宮沢賢治の作品を何度か読み聞かせられた記憶がある。小学生用に書かれた童話集も読んだ記憶がある。率直な感想としては、つまんない、の一言。 「風の又三郎」の「どっどどどどうど・・・」はまるで呪文だ。 しかし、つまらないと感じた割には妙に記憶に残る作品ばかりだった。
 大学の前後、代表作のほとんどを読みなおしてみたが、不思議な世界としか言いようが無い。あれは大人のための童話ではないかと思う。あの不思議な世界が子供にわかるとも思えない。
 10年ほど昔、賢治の故郷花巻まで2年間通勤した。(往復300km、新幹線通勤代月12万円) 市街地にほど近い北上河畔に、イギリス海岸と彼が命名した場所がある。白っぽい泥岩が露出しドーバーの白い壁に似ているからだそうだ。河川中流のありふれた地形、どこがドーバー、どうってこと無い所だと思ったものだ。
 その次の機会に、誰もいない夕暮れ時、河畔に一人静かに佇んだ。晩夏の暮れ行く北上川をぼんやり眺めていると、急にすべての謎が解けたような気がした。このありふれた何の変哲も無い、凡人にはそう思える地形から、ドーバーの白い壁を連想するなんて、何と言うロマンチストなのだろう。すべてはそこから始まっている。そんな気がした。
 岩手の人の賢治に対する思い入れは実に深い。愛すべき郷土の偉大な作家がいる事がうらやましい。 私としては珍しく文芸散歩になってしまった。

2004.5追記
 10年以上昔の記憶で偉そうな事を書いてはいけないと思い、先日盛岡出張の帰りにイギリス海岸に寄ってみた。あいにく増水していて河床の岩は見えない。もっともそれが見えたところで、泥に汚れた土色の河床でがっかりする事が多い。
 綺麗な公園に整備され柵まで巡らしてある。柵の外からでは川岸の様子が良く見えない。自己責任で柵の中に入り、水際から岸を見上げた。確かに白い。もう少し離れ、できるだけ低い位置から見上げると、ドーバーの白い壁もかくやと想像できるだろう。
 ウェブサイト上でたくさんのイギリス海岸の写真がアップされている。それらと比べ比較的白く撮影できたと自負している。賢治ファンのサイトを覗くと、イギリス海岸が賢治の原点と捉えているファンが多いようだ。イギリス海岸を見て賢治が理解できたような気がした私も、それほど的外れな事を言っているわけではなさそうだ。              続編
          

  パンク修理  (2004.4.16)
 車がパンクした。チューブレスタイヤは空気が一気に抜けず、少しずつ抜けて行く。走っていてリアがふらつくな、と思っていたら後輪のタイヤが半分以上へこんでいた。点検するとM4タッピンねじが見事に刺さっている。パンク修理キット
 とりあえずスペアタイヤに交換して考えた。ガソリンスタンドで修理すると1,500円。チューブレスタイヤのパンク修理はそれほど難しくないと聞いているので、自分でやってみるか? ホームセンターを覗いてみると修理キットが1,900円で4回分の消耗品が付いている。2回パンクすれば元は取れる。頻繁にパンクするものではないが、2年に一回程度はパンクするし、経験しておくのもエンジニアとして必要だろうと購入する。(写真左より接着剤、駒、リーマ)

 作業は非常に簡単。刺さったねじを抜き、リーマで穴を広げ、駒に接着剤を塗って、リーマで圧入するだけ。接着剤が乾く時間を入れても10分程度であった。問題はここから。本当に穴が塞がっているのか全く自信が無い。空気を入れ(ハンドポンプでは少々力仕事、エアコンプレッサがあれば簡単)念のため水槽に入れてみると気泡は見られず、一応修理は成功したようだ。
 こんなに簡単なら車から外さずに修理できた。一番の大仕事はタイヤの脱着である。油圧のガレージジャッキなら楽だが、標準車載のパンタグラフジャッキでは疲れる。タイヤも14インチになると持ち上げるのは一苦労、これ以上大きなタイヤが付く車を所有する気になれない。オフロードビークルに乗っている、か弱い女性はどうするのだろう。見目麗しき乙女なら皆喜んで手伝ってくれるが、おばさんなら・・・ 
 それにしても車載ジャッキの使いにくいこと。パンクの他に当地では普通タイヤとスタッドレスタイヤの交換を年2回しなければならない。小型の油圧ジャッキを標準車載にしてもらいたいものだ。自動車メーカは温暖地にあるので、開発者はジャッキなんて付いていれば良い程度にしか思っていないようだ。

 話は変わるが自転車のパンク修理はずいぶんやった。時間はあるが金が無い学生時代、暇に任せて何とかしようと思っても、金が無いから専用工具が買えない。自転車はチューブの修理となり、タイヤをリムから外し、チューブを引き出さねばならない。代用工具で苦労して済ませると、修理後も漏れが止まっていないことが多い。こんな事を何度もやっているうちにコツがわかり、自転車屋同様の修理が出来るようになった。金が無いという事は本当に勉強になる。
 今、子供たちの自転車が割と頻繁にパンクする。歳はとりたくないものでパンク修理する「ずく」※がない。子供たちも裕福?なのかすぐに自転車屋さんに持って行く。無理して親父が直してやってもそれほど喜ばないような気がする。寂しい世の中だ。

※ 「ずく」 信州弁だと思っていたが、広辞苑には「ずくが無い」(気力が無い、めんどう)と載っていた。信州では多用しているし、標準語の気力が無いともちょっとニュアンスが異なるため、私も便利でよく使う。「パンクを直す気力が無い」、ではやはり少しおかしい。信州では「ズクを出す」と言うようにも使う。

  勝負  (2004.1.5)
 私は賭け事はしない。競馬、競輪は無論のことパチンコも最近行ったことがない。10年前にはパチンコ台の後でお金を集め金庫へ収納したり、両替をする機械を設計していたこともある。それでもパチンコ屋へは行かなかった。若い頃少しばかりパチンコ屋へ行き、採算を計算してみたところ、結局得られる景品の期待値は出資金額の半分にも満たない事がわかり、ばかばかしいので以後止めた。

 ところが、勝算があると話は別で俄然燃えてしまう。子供たちとトランプをしても容赦はしない。以前3歳の子供と真剣に勝負してしまった事があり、ふと我に返ってからご機嫌を取るのが大変だった。

 私の代が相次いで結婚した当時、親戚の正月行事でカルタ(いろはではない)がはやり、一時途絶え、最近その子供たちが成長し、何とか取れる(下の句で)ようになってきた。私は古典なんか大嫌いで百人一首は10首も覚えていないと思う。ところが少々ご年配の中にはほぼ完璧に覚えている人がいる。これでは正月の度に恥をかく事になり、おもしろいはずがない。記憶力減退も心配になり、一念発起、100首全暗記に挑んだ。
 学校の勉強と同じでただ覚えようとしても覚えられる物ではない。コツをつかもうとインターネットで探しまくったところ、実に楽しいサイトにめぐり合えた。
http://www.takken-iida.com/ogura/
 多少とも興味のある方は、ちょっとのぞいて見ることをお勧めする。これを毎日15分程度、1ヶ月もやったが、全部の歌を丸暗記するのには十分な時間ではなく、上の句と下の句の頭だけ覚えることにした。例えば「みかき守・昼は消え」「音に聞く・賭け」「有馬山・いーで」「淡路島・行くよ」と言う調子である。こうしてすべての札を5秒以内に取れるようになり、後は自然に歌も記憶に残るようになった。

 さて待ちに待った正月、いよいよ実戦の時が来た。ところが思いの外取れない。正式には100枚の札のうち50枚を置き、残りの50枚は読まれてもその場にない空札となるのだが、素人は無い物を見極められない。そこで100枚全部置く事になり、それだけの札の場所を瞬時に覚えるだけの記憶力は持ち合わせていない。自分の前の札だけは確実にゲットしようとしても、下の句を見て上の句が出てこないのだ。残り20枚くらいになるとようやく子供たちより早く取れるようになる。

 碁や将棋はハンディが付けられ、へぼ同士でも楽しめる。愚息とは6枚落ちから始まり、現在飛車落ちでほぼ互角となった。私が子供だった頃、父と指しても勝ったことがなく、大学に入ってから何年ぶりかで一指ししたとき初めて一勝できた。ただ、ほろ苦い勝利と言う言葉が一番適切かも知れない。父親は何時までもそびえていて欲しいもの、老いは感じたくないものだ。愚息がハンディなしで私に勝ったとき、私は何を感じ、彼は何を思うのだろうか。

 私の名前 (2004.1.3)
 私の名前に疑問を持っている方がいらっしゃると思うので、説明させていただきたい。子供が生まれた時、親としての責任から非の打ち所のない名前にしてやろうと、姓名判断の本を3冊も買い込み、1週間悩んで命名した。(その割には平凡ではあった) ついでに自分の名前を調べると、これがまあ、どうしようもないくらい悪い。今まで悪い人生だったとも思わないが、名前を変える程度の作業で幸福と長寿が得られるなら、試してみる価値は十分ある。時代係った「孝」の字が嫌いだったこともあるが、姓名判断が当たるか当たらないかを調べる実験を現在も継続中で、一種の冗談と思い気を悪くしないでお付き合いいただきたい。一部の方を混乱させて大変申し訳ありません。戸籍上は元のままです。

 苗字の「関本」は戸籍上では「關本」になっている。改まった署名以外使う事はあまりない。「關」にすると読めない人がいて、これは実に困る。「カンポンさん」と言われた事さえある。
 今年の4月まで戸籍で「セキ」は図の字であった。これがまた不便で一般のワープロ、和文タイプでこの活字がない。学校の公文書はすべて戸籍上の字を使うようになったのか、事あるごとに先生からお尋ねが来る。そんなのは「關」でも「関」でも図の字でもどうでも良いと思っていたので、いちいち説明するのが面倒だった。

 今後の事もあり、区役所に出向き正字である「關」に改めた。図のセキが略字である事は結婚し戸籍を分けるときに初めて知った。「關」で届けようとすると、元の戸籍が違うと言う。辞書のような字体集を見せてくれたが、關の崩し方のバリエーション、あるいは組み合わせで8種類ほどの字があるという。良く調べた物と感心してしまった。どれにするかと聞かれたので、先祖伝来の物を変える必要もなかろうとそのままにしておいたが、そのため我が家の戸籍簿は「セキ」の部分だけ手書きのまま残っていた。

 出生時に届けた字体を活字にある字体に勝手に変えられてしまい、何年もその事実を知らされなかったと小学校の友人の年賀状に書かれていた。戸籍は本人以外いじれないと信じて疑わなかったが、役所が勝手にいじることもあるらしい。法的に許されるのか疑問が残る。
 住民基本台帳なる物と戸籍の整合を取る必要が出てきたためかも知れない。住民基本台帳があっても戸籍は必要なのだろうか。国、自治体は国民を番号だけで識別し、名前を非登録にしてしまえばプライバシー情報の漏洩の心配も少なく、名前がころころ変わったりして楽しい世の中になると思うのだが。

 冷凍食品の買い方 (2004.1.2)
 私の最初の仕事はスーパーマーケットの冷凍設備関係であった。工場での実験が主ではあったが、時には現場に出た。それから20年以上経過したものの、流通のことはいざ知らず、スーパーのレイアウトや冷凍システムは昔からそれほど変わらず、昔取った杵柄、初めて行ったスーパーで目的の商品を探すのは、女房より確実に早い。
 私の経験からこのサイトのお客様にアドバイスできる事がある。冷凍食品やアイスクリームを買うときは、表面に出ている物ではなく、その下、できれば奥の物を取る事をお勧めする。
 家庭用も例外ではないが、冷凍冷蔵庫では霜取りが不可欠で、どうしても数時間に一度冷凍機を止め、除霜しなくてはならない。密閉型冷蔵庫ではそれほどでもないが、スーパーのオープン冷凍冷蔵庫では単にエアカーテンで仕切っているだけなので、除霜時に商品温度が簡単に上がってしまうのである。
 昔実験したところ、冷凍食品は特に顕著で、表に出ている物の表面温度は5度程度簡単に上がる。ところが一つ奥の商品温度はほとんど変わらない。
 スーパーで商品を選り好みしている奥様方はあまりスマートに見えないが、冷凍食品に限っては他の人に悪いものを押し付けるわけではないので、気にしなくても良い。(と私は勝手に思っている) もっとも全員がこれをやったら表の商品には何度も結露し、それが凍る繰り返しとなるので、商品価値が下がる可能性がある。だからこの情報はここだけの話にしましょうね。

 大失敗       (2004.1.2)
 誰でも思い出すたびに赤面するような、あるいは未だに信じられないような失敗をしでかしたことがあると思う。私の場合、同じ失敗を繰り返す恐れがあり、その場合の怒りを押さえていただくために、ここで告白しておくことにする。

 どういう訳か私は人の顔を覚えるのが、どうしようもないほど苦手である。TVに出てくる芸能人などは最たる物で、家族に「この人○○だよね」とかなり雰囲気の違う人の名前を出して笑われる。浅丘ルリ子、加賀まり子、木の実ナナは皆同じに見える。
 20年ほど昔、月間行事のように見合いをした。(正確にはさせられた) ある人とちょっと良いムードになり、1週間後にまた会うことになった。待ち合わせの場所に行き、その人を見つけ「お待たせ~」と声をかけたところ、「ハアー」 ハッとして「失礼しました。間違えました」と言い繕うが、初対面の見ず知らずの人に声をかけてしまったらしい。その後に本物が現れたので間違いである事が証明された。ちなみに今(昔から)の女房はこの件とは残念ながら全く関係ない。いくらなんでも街で人違いした人と結ばれた、なんて・・・・・女房は本当に自分が選ばれたのか未だに疑っている。

 大事なお客さんが隣にいても、その人とは認識せずに世間話をしているようなことは日常茶飯事なのである。こんな私なので、どこかで出くわして変な対応をしたら、それはきっと誰だかわからないでいると看破し、何気なく身元をアッピールしていただければ本当にありがたい。
 ちょっとおかしいと思われるのも癪なので追記するが、私は土地勘とか、3次元形状の認識力などは人並み以上で、地図をじっくり見ておけば、ドライブ中も太陽の位置、走行時間、速度から自分が大体どの辺にいるか想像でき、カーナビなど欲しいと思ったこともない。頭の中で使う部分が違うのか自分でも不思議に思う。

 信じられない失敗と言えば、小学校の夏休み前、うきうきしながら15分歩いて家に帰ってきた。そこで初めて気がついたのだが、何と手ぶらで家に帰ってしまった。ランドセルは学校に置いたまま。小学校以来商売道具一切合財を忘れてきたのは後にも先にもこの一度だけ。ヨーヨーマがチェロをタクシーに忘れてくるくらいだから、こんな失敗はかわいい物か。

 視力検査    (原文1997、推敲2003.11)
 小学校の掃除当番で保健室が回ってくることがあった。珍しい器具の中で視力検査表だけは使い方を知っており、これを覚えておけばいつか役に立つに違いないと、夢中でひらがなだけ丸暗記した。「りさつくけてへこいりにこ、けいこにいさついてとへり」 ところが、視力検査の当日、なんと別の検査表が貼ってあるではないか。敵もさるもの、やられた。
 中学、高校になると視力が良いのはそれほど自慢にならない。勉強していないと勘ぐられる可能性すらある。私も人並みに少しは近眼になり、少しでも視力を良く見せようという気持ちは失せてしまった。
 せっかく覚えて忘れられない「りさつくけてへこい」なので、次の世代に伝承させようと、わけのわからない幼子に子守唄のように聞かせた。
 小学生になった子供は、ある時眼科に行くことになった。さっそく視力検査で定位置に立った瞬間、部屋中に響き渡るように叫んだ。「あっ、りさつくけてへこい だ!」

 新しい家族     (2003.11)
 7月19日生まれの男の子が家族に加わりました。やんちゃで困っています。そのくせ外に連れ出すとしがみついて離れません。
 ただ、家内がお腹を痛めた子ではありませんから、くれぐれも出産祝いなどお送りくださいませんようお願い申し上げます。名前はカルロス・権・家守



2004.6 追記
 この子が家に来て早9ヶ月、昔の写真から見るとずいぶん大きくなったものだ。しかし、犬とはこういうものなのか、この子だけの特性なのか、想像していた犬の居る生活とずいぶん違う。柴犬は愛玩犬ではないから愛想も悪く、番犬には最適と聞いていたが、それもあやしい。
 玄関に置いていたため、初めの頃は来客にずいぶん噛み付いた。最近も大声で吼えるが、2度以上来ている客には吼えないようだ。この点は○。どうも若い人間の女性が好きで、散歩中も吸い寄せられて行き油断ならん。すれ違ったお嬢様のお尻に飛びついた時は顔面蒼白そして平身低頭。(飼い主に似たわけではない。たぶん) そのくせおじいさん、おばあさんが散歩して通りかかると、家の中からでも吼える。
 一番予想外だったのは、猟犬の癖にものすごく慎重で臆病だ。車の多い大通りにでも連れてゆこうものなら途中で絶対に動かなくなる。抱っこして10分も歩いて戻った事もある。そして水が大嫌い。土が湿っていると外に出ない。幅が40cm程度の川でも絶対に飛び越えない。コンクリートが濡れていると、そこを通り抜けない。犬と言う物はいぬかきの達人と思っていたが、足をぬらす事さえしない。
 「おまえ、それでも犬か、もう少し自覚を持て」と叱咤しても尻込みするばかり。信じられないのは、散歩があまりお好きではない。連れ出せばそれなりに歩くが、リードを付ける時の抵抗はものすごく、噛むはひっかくは半袖だと腕が無傷という事が無い。30分も歩いて戻ると、家から50mほどのところから脱兎の如く駆け出し、水を飲むとケージの中に勝手に入ってしまう。草叢も嫌い。抱っこも嫌い。大抵抗する。
 キャッチボールが好きで外でもケージの中でもボールを投げてやると喜んで食らいつくが、なかなか離そうとしない。遊んで欲しい時は噛み付き、しがみつき、可愛がってやる気が失せる。すると何時までも吼えている。
 噛むのだけは止めてもらおうと、ニューハーフになってもらおうか思案しているが、これ以上臆病になったら外にも出なくなってしまうのではないかと案じられる。まったく馬鹿なのか多少は利口なのかわからなくなってきたが、ダメな子ほど可愛いというのも事実で、水溜りの前で置いて行くふりをすると、アイフル犬のようにじっと見つめられるから困る。
 

 我が家の震度計  (2003.11)
 例年に増して地震が多かった宮城県、当地では5月と7月に震度4を観測した。体感でもおおよその震度は見当がつくが、写真のチェスの駒は、気象台発表震度との相関が割とはっきりしている。
 震度2以下では倒れない。震度3だと数体倒れる。震度4になると半分以上倒れる。ところが5月の地震では震度4でも全部倒れてしまい、それ以上の震度を観測できない事が判明した。要するに震度3から4の弱い方までしか測定できず、レンジが狭くてあまり役に立たないようだ。
 ロンドンの世界最大といわれる玩具屋"Hamleys"で駒ではなく、型を買って来た。お土産を買って帰るのは面倒だ。たくさん買わないと足りなくなる恐れだってある。そんな悩みを一挙に吹き飛ばしてくれた。これさえ買って帰れば、日本でいくらでもお土産を量産できるではないか!  得意満面な私に女房は「お土産を買って帰るだけでも面倒なのに、自分で作るなんて」とあきれていた。
 確かに現実はそんなに甘く無かった。溶かし込む金属がわからない。英語の説明書にはホワイトメタルと書いてある。ホワイトメタルと日本で言えば白銅、百円玉の素材で、ちょっとやそっとで溶けるはずが無い。「鉛の兵隊」と言うくらいだから、鉛を溶かして鋳込めば良いのだろうかと、耐熱ゴム製らしき型に溶けた鉛を流し込むと、ゴムの焼けた臭いがする。これでは温度が高すぎるようなので、より低融点の金属、鉛・錫合金、平たく言えばハンダと目星をつけ、手持ちのハンダを流してみたところ何とか成功した。
 ところが次の問題が出てきた。小売しているハンダは結構高い。これでは1セット数万円の土産になってしまう。冗談ではない。素材の問屋を紹介してもらい、5kg程インゴットで安く譲ってもらったが、これでも小口取引のようで、窓口のおねえさんに「今回だけにしてくださいね」と言われてしまう。
 やっとめでたく量産できると思いきや、何と半分はオシャカ。二つに割った型を締めすぎると中の空気が逃げずに巣ができ、かといって緩過ぎるとバリが出る。何とも歩留まりが悪い。
 結局完成したのは2セットだけだった。半端になった駒は、随分いろいろな人にあげた。重量感のあるダイキャストで、結構喜ばれたと自己満足している。
 そのうち1個は、出産退社する女子社員に「安産のお守りだ」(何の根拠も無い)と言って渡した。きっと玉のような子を出産したに違いない。

 秋に寄せて     (1978 11/3 こんな文章を書いていた時代もあったのです)          
いつの頃からか、私は春と秋が好きになった。
子供の頃、春と秋がなぜ夏と冬の間に割り込んでいるのか、そんな事を確かに考えていた。
ある日を境に、突然夏と冬が入れ替わったら、どんなに楽しいだろうかと、今考えれば不思議な夢を持っていた。
そんな夢があったのを、今でも思い出す。本当に何時だろう。春と秋が好きになったのは。