・松崎 温 君の遺したもの
 小学校から始まり、死の3ヶ月前まで膨大な手紙やEメールをもらった。本当に彼は文章が上手かった。冗談半分の手紙でも例外ではない。ただ、それは私信であり今更故人の意思も確認できないので公開はしない。Noであることは聞くまでもないが。
 手元にある公になった物から紹介させていただこうと思う。松崎美穂子さんが転載を快諾してくださった。

  三十二年六月中旬。ぼくが六歳になったばかりで、幼稚園の青組。岳は一歳六ヶ月の時だ。ぼくは今、あの頃のことをはっきりとは覚えていない。しかし、それからの日は、よくけんかして泣かしてしまった。もちろん、しかられるのはぼくだ。そして母が岳をあやす。ぼくにはそういうことがとても憎らしく感じられた。時には、からかい半分に高さ五十センチほどの出窓に乗せてしまった。まだ二歳にもならない岳にはこんな所からおりられるはずがない。だから泣声を聞いて、母がかけつけおろしてくれるのをまつほかはない。ぼくは、わざと知らん顔をしている。当然ぼくは母にしかられる。こんな事はしょっ中であった。
  しかし、可愛く思う時もずい分あった。ぼくが一時半頃幼稚園から帰ってくると、必ずといってよいくらい、むかえに玄関まで、よちよちした足どりで出て来てくれた。岳は父母と一緒に二階で、ぼくは兄と下の座敷でねていた。岳がねる時は大抵母がねかしに行って何か話をしていたらしい。しかしものの五分もたたないうちに岳はねてしまう。そのくらい、ねつきの早い子だったし、手のかからない子だと母はいっていた。
 その年の十月祖父が亡くなった。その時、ぼくは母と岳と三人で諏訪へ泊まりに行っていた。夜おそく父からの電話で、祖父のきとくを知らされ、翌朝一番の汽車で松本へ帰り、その足で兄も一緒に、稲荷山へ行った。祖父のことについてはあまりよくおぼえていないので、祖父が死んでも、そう悲しいとは思わなかった。それに岳は、なんのために、みんな悲しんで、こんな所に集まっているのか見当もつかなかったろう。そこには岳の父や兄の洋もいた。岳は顔を覚えていたらしく非常に喜んだ。岳はまだ二歳を少しすぎたばかりだ。だから、ことばもあまりはっきりせずに言っていることがよくわからなかった。それにいじめたりしかったりしない限り、泣くということはほとんどなかった。だから母は、今でも岳のことをよい子だったとほめている。
 しかし、三十三年の祖父の新盆に、岳の父が墓参りに来て、その時岳をつれて帰っていった。そのあとは静かでよいと思うこともあったが、長い間一緒にくらしたかわいい岳が急にいなくなってしまったとなると、とても淋しく感じられた。
 それから二年ほど後、再び岳がうちにくることにきまった。三十五年五月頃、ぼくが三年、岳は四歳半の時だ。父はまた四国までむかえに行った。おじが愛知県の安城市へ転勤になったので、引越しの手伝いもあった。今度は兄の洋も稲荷山のうちへ預けられることになった。二人共そうとは知らず、松本へ来ても楽しそうに遊んでいた。
 翌日、洋が祖母たちにつれられて汽車にのりこんだ。そこで初めて自分だけが、稲荷山に連れて行かれるのだとわかり、ベソをかきだした。その時、ぼくは、別れ別れになる兄弟がとてもかわいそうでしかたなかった。
 今度の岳は前と大部ちがっていた。言葉は四国弁がとても発達しており、ぼくよりも早しゃべりであった。出窓にのせてもすぐとびおりる。みんなが「ここの家にいたことを覚えているかい?」と聞くと「知らん」と答えるだけだ。それにぼくは、前のように岳をいじめまいと決心をした。
 朝、兄とぼくが食事をしていると、たいてい、岳がねぼけまなこで、二階からおりてきて、兄の弁当をつめている母の横にちょこんとすわるのだ。まだ目がさめきっていないので、じっとだまって細い目でみんなの食べているのを見ている。そういうところが一番ぼくにほかかわいく思えた。
 親子遠足でも、親子会でも、PTAでもいつも岳は母のあとについて歩きまわったりする。まるで本当の親子のようだった。その頃では、もうぼくもそんなことで、やきもちをやいたりせずに、岳をよけいかわいく思った。岳ほぼくのほんとうの弟のようだった。 岳の誕生日は十二月二十四日、クリスマスイブだ。お目でたいことが二つかさなって我家にしては盛大なお誕生日をした。みんなで一斉に「岳お誕生日お目でとう」と言うと、岳はうれしそうな、もじもじした様子で「ありがとう」と言った。
 翌年の一月二日、とうとう岳のかえる日になった。写真屋によって、兄とぼくと岳と三人で記念写真をとった。いよいよ出発だ、うち中で駅まで送り、プラットホームで手をふってわかれた。 その後まもなく二度目の母をむかえた岳は今では、もう二年生。時々安城の様子を知らせてよこす。今はうち中で幸せにくらしている様である。
転載許可済み 無断転載禁止
昭和38年度 信州大学教育学部附属松本小学校六年西組 卒業記念文集「青空」 より転載
松崎一 「惜春の詩」 昭和59年12月 同文の掲載あり
 彼の暖かさと茶目っ気が目に浮かぶ。PTAのお母様方の涙を誘ったのに、当時私はこの価値が判らなかった。何とこれが小学生の作文かと今でも驚く。私の作文なんて恥ずかしくて一行も載せられない。卒業文集の中では間違いなく最高傑作だったと思う。彼のことだから、何度も何度も推敲を重ね、これだけの完成度に仕上げたことだろう。
御父上、松崎一先生の著書にも全文紹介されているが、改めて転載させていただいた。