東日本大震災 被災写真集 仙台新港-七ヶ浜-松島-奥松島 2011年4月6日撮影


同じ仙台市内でも臨海部は津波により、内陸部とは比べ物にならない被害があった。報道では伝わらない猛威を自分の目で確かめておくべきだと思う。
仙台新港液状化の跡
駐車場アスファルトが原型を留めない。
仙台新港 自動車の墓場
被災しスクラップとなった車が整然と積み重ねられている。
年式の新しい車も多い。
一万t級カーフェリー
名古屋-仙台-苫小牧 の航路が復活した。
JFE関連会社に乗り上げた貨物船
どういう状況で座礁したのだろか。想像するだに恐ろしい。
仙台港中央公園
多くの人が釣り糸を垂れるのどかな場所だった
貨物引込線
仙台港荷役の動脈が失われた
貨物駅
七ヶ浜町 両側には民家、商店が並んでいたはず
七ヶ浜町 菖蒲田海水浴場
多くの仙台市民がここで楽しんだことだろう。防波堤の内側は壊滅状態。外側は漂流物の他、目だった傷は見られない。
しかし、地盤沈下したようだ。以前、波打ち際はもっと遠くだったと記憶している。
菖蒲田海水浴場
民家に車が突き刺さっている。無事に高台まで逃げられただろうか。
菖蒲田海水浴場
誰が置いたか、ベンチがむなしい。
菖蒲田浜-高山浜間
漂着したコンテナは大災害の置き土産。
花渕浜漁港
この漁船は海に戻せそうだ。ほんの偶然が被害の大きさを分ける。
松島

 あの美しかった松島は、面影が失われるほど破壊されたのではないかと心を痛めていた。ところが周りの地域と比較すると、被害は驚くほど軽微だ。土産物屋の一階が浸水し、小型の船が陸上まで運ばれた他、無傷といっても良いくらいだ。
 地図を見ると、松島湾と太平洋の境は半島や島々で区切られ、津波の威力を緩和したことが判る。国宝瑞岩寺の建立は400年以上昔に遡る。その間何度か大地震があった。昔の人は津波に対して安全な場所を知っており、そこに大規模な建造物を建てたのか、あるいは津波被害が少なかったから破壊されず現存しているのか。
五大堂
小さな島の上にあり、消滅も覚悟していたが、ほとんど無傷。
福浦島(右)と福浦橋(中央赤い橋)
小型の遊覧船が陸上に置き去られただけ。
国宝瑞岩寺の参道
この半ばまで津波は押し寄せたらしい。しかし本堂他は浸水もしなかった。観光客は誰一人おらず、お坊さんが一人、掃除をしていた。
松島 遊覧船乗り場
この写真を見る限り、「どうして人がいないの?」としか感じられない。

松島 土産物屋街
一階が浸水し、流失した物品がガードレールに絡まっている。再開にはお金と時間がかかるだろう。しかし、壊滅はしていない。復活できる。
東松島市 東名付近
松島を津波から守った代わりに、太平洋の防波堤となったこの地区は壊滅した。
東松島市 野蒜
野蒜海岸に海水浴に行くたび、お弁当や飲み物を調達したコンビには全壊した。
東松島市 野蒜から宮戸島
陸続きだと思い込んでいたら幅10m程の水道で隔てられた島だった。間の橋が流失し、孤立した。自衛隊が逸早く仮設橋を設け、本土からの援助が差し伸べられた。

宮戸島 大高森前のホテル
海抜数mでも津波の被害は見られない。漂着物が多く、船は出せない。
大高森 津波避難標識
幸いにも無用だった看板。

奥松島 宮戸島
図下が太平洋、上が松島湾。津波は太平洋から押し寄せ、中央の野蒜海岸から松島湾に抜けていった。図中央の黄色の部分は壊滅。
野蒜海岸
防波堤の先を回りこみ、車で波打ち際まで入れた。もし海水浴シーズンにここを津波が襲ったら、出口は一箇所だけ、高台もない。絶体絶命だ。

野蒜海岸付近
防砂林が広がっていたはずだ。すべて流され、泥濘地だけが残った。ページ最後の写真と見比べて欲しい。牡鹿半島の山々だけは変わらない。
野蒜海岸付近
自衛隊による仮設道路だけが人工物。この先に乗馬クラブがあった。馬も犠牲になったのだろうか。
奥松島かんぼの宿
問題の多かった「かんぽの宿」の中では集客力があり、存続していたのに、一階部分はすべて破壊された。
野蒜付近の東名運河
藩政時代から海運のために掘削された。津波はこれも乗り越え、運河には瓦礫が残った。

東名郵便局跡
ポストと金庫だけが残っていた。
東名(とうな)
消防車も流された。
東名の運河
漁船が行き交い普通の暮らしがあった場所は、まったく人の気配が無い。犯罪に巻き込まれそうな恐怖すら感じる。
東名付近の仙石線線路
完全に倒立してしまった線路。再び電車が走るのは何時になるのだろう。線路が付け替えられるかもしれない。
被災前 2010年5月の野蒜海岸
 夏には多くの海水浴客で賑わった場所から津波が押し寄せ、陸地を飲み込んで行った。しかし、遠方の石巻から牡鹿半島にかけての景色は何も変わらない。防波堤や人間の作った構造物は無残に破壊されたが、山や島、そして海も変わらない姿で輝いている。大丈夫、元に戻せる。