雑談室 2006年1月~
刃物研ぎにはまる (2006.6.8)
ちょっと包丁を持ってみた。ところが見事に切れない。おまけに刃こぼれまでしている。近所のスーパーが撤退し、そこに出張していた研ぎ屋と縁が無くなり、数年研いでいないのだそうだ。
包丁を研いだことは無いがネット上で調べてみると、何とか自分でも出来そうだ。家にある砥石は割れて使い物にならず、荒砥(#300)と仕上砥(#1000)が背中合わせに付いている1,000円もしない普及タイプの人造砥石を買って来た。(写真中央)
刃こぼれを修正するのに30分あまりかかったが、仕上がった包丁は剃刀のよう。切れ味は指で刃をそっとなでると大体わかる。一応念のため書いておくが、指は刃と直角に動かす。平行には動かさない方がよろしいでしょう。私の腕を信用しないかみさんが切れる切れると怖がっているのだから、他人による評価も上々。
今までは水を出しっ放しにして砥石表面を綺麗にしながら研いでいた。その研ぎ方が間違っていた事を、今回初めて知った。水を垂れ流さずに出てくる泥状のものをそのままにしておくのだそうだ。その粒子で研ぐらしい。まったく目から鱗だ。
「包丁の研ぎ方」と言う本(あるかどうか知らない)をわざわざ探して買うほどの事でもなく、インターネットと言うものが無かったら一生包丁の研ぎ方を知らないでいたに違いない。昔父親が包丁を研いだら、母親いわく「かえって切れなくなった」そうで、素人に包丁研ぎは無理だとこの歳まで思っていたのに、正式な方法がわかれば何の事も無い。
上手く行くと調子に乗って凝りだすのが私の悪い(良い?)癖。家中の切れ味の悪い刃物を片端から研いだ。1,000円の砥石では、十分元を取っただろう。刃こぼれしていなければ包丁一本15分くらいで研げる。
写真左はホームセンターで山菜採り用ナイフとして売られている物だが、サバイバルナイフ以外の何物でもない。さすがに街を歩くときは置いて行くけれど、手近にこの手のナイフがあると、物作りや自然が好きな私には何かにつけ非常に便利。
左上は京セラブランドの簡易包丁研ぎ器。同じような構造の物の中では一番性能が良いと思う。ただし、両刃用で片刃には向かない。ベティナイフのような物なら、数分で新品同様になる。その右はフィンランド製の鋏研ぎ器。構造から研ぐと言うより、刃の返りや歪みを修正するだけの物だと思うが、効果は抜群。手に入れたその日に家中の鋏を研いでいること請け合い。右上はオイルストーン(油砥石)。刃の細かな修正に、一つは欲しい。
さて、刃物を研ぐと困ったことが一つある。切ってみたくなるのだ。そんなときは大根かキュウリで試し切りしてみよう。奥方にも喜ばれる。
研ぎ方についてはここでは書きません。興味のある方はWeb検索してみてください。諸先輩が図解入りで丁寧に説明しています。いくつか流儀があるみたいですから、自分に合う方法が見つかると思います。それ程難しい事ではありませんし、定石通りにすれば危険もありません。何事も経験です。大事だと思うのは、砥石が安定して置かれていることと、無理な姿勢を取らないことです。
タラノメ争奪戦 (2006.5.13)
私は山菜があまり好きではない。温泉旅館で山菜の山盛りなど出されたら、その辺の食堂でカレーライスでも食べ、素泊まりにすれば良かったと後悔する。ただし、タラノメだけは例外で大好物だ。 今年の2月、家に隣接する県有地でタラノキの群落を発見した。樹高2~3mが7本位ある。4月には存分にタラノメ料理が楽しめそうで、思わずにんまり。タラノキを発見すると「ドクトル・ジバゴ」のテーマ曲が口をついてしまう。「ターラーララ♪」と言うわけで、本当は「ラーラのテーマ」だから、一字違う。間違いに気付きこれなら良いだろうと「風と共に去りぬ」から「タラのテーマ」を口ずさむ。こちらは地名のTara(架空の地)で、タラノキ、タラノメとは全然関係ない。名画のテーマ曲を口ずさむほど大層なことではないのだが、我ながら単純だ。
4月末、そろそろ良いかと見に行くと、近所の誰かも目を付けていたようで何と新芽が無い。この木は県有地にあるが、当家の敷地すれすれにあり、根は明らかに当家に入っているのだから、当方に優先権があると思うのは私だけか?
それからは一部を食べ頃前に取って来て、水に差して大きくした。激しい争奪戦の末、何とか食卓の片隅を彩る程度は確保し、あっさりして美味な自然の贈り物を楽しんだ。
その後、紳士協定か敵さんがあきらめたのか、写真の二番芽はそのまま残った。また来年のお楽しみ。ちょっと大きくなりすぎたし。
自分の家に植えれば、たらふくかどうかはわからないが、悠々と食べられる。でも自然の中で見つけ、見えない敵と駆け引きし、タイミングを見計らい一番美味い時期に採る。この手間が楽しい。手間のかかった物は絶対に美味い。
春爛漫 (2006.4.23)
今年も満開のサクラを愛でることが出来た。「時は春、・・・・すべて世は事も無し」(「春の朝」 ロバート・ブラウニング、上田敏訳 原詩より和訳の方が良いような気がするのは英語が苦手なせい?)の世界そのままに、何事も無く今年も花が咲く。そんな平凡な日常を送れる事を、幸せだと思いたい。
手間ばかりかかって本人はあまり楽しめない樹と以前書いた。それでもサクラが綺麗に咲くのはうれしい。秋に庭師が入ると、大胆な剪定で花芽も切られてしまうが、昨年庭師を入れなかったため、花芽がたくさん残って今年の花は見事だ。
昨年はひどい花粉症に悩まされたものの、今年は爽快。しかし、なかなか気温が上がらない。やっと晴れ上がった休日、庭仕事で疲労困憊。
40円切手はなぜ無い? (2006.4.3)
勤め人時代、郵便切手が必要なときは事務の女性に言えば望みの額面がすぐに出てきた。一枚一枚切り離して整理している。ちなみに家内はこの切手を千切る仕事が一番楽しかったという。上役も適材適所と看破していたのかも。
自営業者としては会社のように何種類も切手をそろえるのは面倒だし、額面ごとに整理しておけるほど暇ではない。一般家庭と同じように50円、80円切手は在庫しているが、これでは半端が出て必要以上の額面で出してしまう事もある。そこで10円切手を100枚買い込み、すべての必要料金に対応できるようにした。しかし、これはあまりスマートではないので、在庫しておくべき切手の最適な額面を考えてみた。
私が良く利用する郵便料金は下表の通りである。40円、50円、80円の組み合わせが一番枚数が少なくて済む。しかし、40円切手というものは発売されていない。110円、130円、160円と一体何に使うか悩んでしまうようなのは売っているのに、40円が無い!。なんで???
無い物は仕方が無い。ここでふと思ったのだが、50円切手を貼るはがきなんぞ、ここ久しく出したことが無い。50円切手の在庫を持たなかったらどうなるか計算してみたのが、表下部である。なんと30円と80円切手さえ持っていれば、50円以外の金額にすべて対応できるのである。これは大発見だ。これからは30円切手と80円切手だけ買うことにしよう。
第一種定形 | 第一種定形外 | 冊子小包 | ||||||||
切手在庫 | \50 | \80 | \90 | \120 | \140 | \200 | \240 | \180 | \210 | \290 |
50円、80円、10円 | 1 | 1 | 2 | 4 | 3 | 4 | 3 | 3 | 3 | 4 |
50円、80円、20円 | 1 | 1 | 3 | 3 | 4 | 4 | 3 | 3 | 3 | 4 |
50円、80円、30円 | 1 | 1 | 3 | 4 | 3 | 4 | 3 | 3 | 3 | 4 |
50円、80円、40円 | 1 | 1 | 2 | 2 | 3 | 3 | 3 | 3 | 3 | 4 |
80円、10円 | 5 | 1 | 2 | 5 | 7 | 6 | 3 | 4 | 7 | 8 |
80円、20円 | 3(10円) | 1 | 2(10円) | 3 | 4 | 4 | 3 | 3 | 5(10円) | 6(10円) |
80円、30円 | 2(10円) | 1 | 3 | 4 | 3 | 5 | 3 | 6 | 7 | 8 |
せっかくの計算なのに、それがどうしたと言われそうだ。忙しいと昔から悪い癖が出て、どうでも良い事を考えたくなってしまう。雨が降っている時、走るのと泰然と歩くのとどちらが濡れないか計算したことがある(走れば前面がより濡れる)。友人達に自慢気に話した。「普通の人はそんな事は考えない」「考えても計算なんかしない。変ってる」「走った方が濡れないに決まってるだろ」と言われてしまった。その通り、土砂降りでも小糠雨でも全速で走り抜けた方が濡れる量は少く、速度に反比例する。
作文で時計をもらう- ANA機内誌に投稿 (2006.3.26)
私の時計は重い。いつでも実験に対応できるようストップウォッチ付で、その上防水、ソーラー、電波時計で、普段は愛用している。しかし、改まった冠婚葬祭ではごつすぎる。牛刀で鶏頭、戦艦大和でディナークルーズ、チェーンソーでマッチ棒細工だ。
薄い時計が欲しいな、と思っていた時にたまたまANA(全日空)機内誌の投稿欄が目に留まった。採用されると時計をくれるらしい。しかもその辺には売っていないような変わった時計で、おっ、これだと色めき、書き溜めていた文から適当なのを見つけ、いつもの冗長な駄文を削りに削ってスリムにして投稿したところ、幸運にも採用され目的の時計をゲットした。
時計が二つ付いている。航空会社だから現地時間と日本時間を表示するのにどうぞ、という物なのだろう。国内ではそれほど役に立たないが、珍しいから喜んで頂いた。
考えてみると著書の印税は別にして、文章で何かを貰ったのは初めてのような気がする。これは癖になりそう。投稿マニアになってしまうかも。拙文参考までに下記します。ご笑覧ください。
四十年ぶりの富山
仙台から富山は遠かった。陸路では一日がかりだったのに、空路では小松空港を経由しても三時間余で到着する。出張のついでに足を伸ばし、昔過ごした富山を訪れた。
全日空ホテル正面、富山城跡を散策していると、高校時代の一シーンが突然脳裏に浮かび、歩みと共にどんどん鮮明になって来た。あこがれていたクラブの先輩に、ここで何か話しかけられた。彼女の名前など覚えているはずもないが、姿も制服も鮮やかに蘇って来た。四十年間全く考えた事も無かったのに、こんな事ってあるのだろうか。先輩と学校の帰りにお好み焼きを食べた事もあった。ちょっと大人の世界に近づいたようで、わくわくした年頃だった。
懐かしさが込み上げ、四十年ぶりに高校へ行ってみた。記憶をたどりようやく探し当てたものの、木造校舎は鉄筋に変わり、確信が持てないまま一周して、ようやく理科棟と体育館に昔の面影を見つけ、安堵した。間違いなくここに通っていた。
何故か輝いていた高校時代、音信不通になった友人たち、結婚するまで年賀状をくれた人、そんな人たちの事を思い、学生時代には考えられない高級ホテルで心温まる夜を過ごした。
ANAグループ機内誌「翼の王国」2006年2月号より
実は上記、若干脚色している。本当のところを記した冗長な原文は下記の通り。
25年ぶりの富山
名古屋へ行ったついでに一日休み、久しぶりに富山に行ってみた。ANAのパック旅行にしたら仙台から中部国際空港往復でも、足を伸ばして復路は小松空港から帰っても同じ料金だったから。
富山市の隣の滑川市で中2から高1まで二年半過ごし、一年半は富山市内の学校に通った。短期間だったため思い出も少なく、その後の本拠地、関東、仙台から遠い事もあって足が遠のいていた。就職したばかりのころ出張のついでに寄って以来25年ぶり、泊まるのは高卒記念一人旅以来35年ぶりだろうか。
学生時代にはオールナイトの映画館で夜明かしをしたり、夜行列車で一夜を過ごしたり、ヒッチハイクでユースホステルに行って泊まったり、ずいぶん無茶をしたと思いながら、今回は富山全日空ホテル。富山城跡と神通川が眼下のすばらしいホテルで、こんなホテルに泊まれるまでになったかと感無量。(実を言えばパック旅行込みで安かった)
ご多分に漏れずかつての繁華街はゴーストタウン。再開発が進まなかったために発展に取り残されたのだろうが、40年前とほとんど変わっていないのに驚き、懐かしさが込み上げてきた。もちろんホテル等の新しいビルもあるが、駅ビル、デパート、電車、それらが40年前そのまま。
城跡を歩いていたとき突然昔の記憶が鮮明によみがえって来た。高校のクラブの人たちと歩いている時、先輩に、ここで何か話しかけられた。彼女の名前など思い出せるはずもないが、姿も制服も鮮明に蘇って来た。40年間全く考えた事も無かったのに、こんな事ってあるのだろうか。ひょっとすると密かにあこがれていたのかも知れない。後輩の受けはいざ知らず、私は妙に先輩に可愛がられるところがあり、この先輩方と学校の帰りにお好み焼きを食べた事も思い出され、ちょっと大人の世界に近づいたようで、わくわくした年頃だった。
懐かしさが込み上げ、転校以来行った事が無い富山高校へ行ってみた。ところが全くわからない。電車の駅も間違いないと思うのだが、通学路の記憶はほとんど欠落していて、ようやく探し当てたものの、木造校舎は鉄筋に変わり、本当にここに通っていたのかと訝ってしまう。一周してようやく理科棟と体育館に昔の面影を見つけ安堵した。間違いなくここに通っていた。
さて、ホテルに帰ろうとしたところ、今度は道に迷ってしまい、流しのタクシーなんかはないし、ようやく病院を見つけ客待ちをしている車に乗った。「富山高校行ってたんだけど」と言うと「地元じゃないですか」と笑われた。
成績は褒められたものではなかったが、何故か輝いていた高校一年、すっかりご無沙汰して音信不通になった友人たち、結婚するまで年賀状をくれた人、そんな人たちの事を思い心温まる夜を過ごした。
火災旋風の歴史的大実験 - 裏話 (2006.1.16)
2005年12月5日に読売テレビの沼田さんと言うディレクターから突然メールが飛び込んだ。正月番組で火災旋風を取り上げたいから、実験してもらえないかと言う。確かに「火災旋風」でウェブ検索をすると、私のサイトがかなり上位で出て来る。しかしこれは模型実験の紹介記事で、私の専門は燃焼ではないし、ましてや火災旋風の実験などやったこともない。大学研究室の一年先輩で、ケンタッキー大学教授斉藤孝三氏が来なければ無理と話したところ、沼田さんはアメリカまで電話をかけ、とうとう口説き落としてしまった。
場所が無ければ実験できないと言うと、短時間で建築研究所との協同研究というお膳立てを整えてしまい、断るつもりの往復ファーストクラスでなければ行かないと言う条件まで飲んでもらえたため、斉藤さんは局側の熱意に負け、クリスマス休暇をキャンセルし、アメリカ人の奥さんに頭を下げ、助手の桑名さんと共に急遽来日した。
先輩が何としても成功させると乗り込んで来るのだから、私としても全力を上げないわけには行かず、通常の仕事を放り出さざるを得なくなる。斉藤さんも一度決心すると実に行動が早く、次々に指示が飛び、沼田さんからも毎日連絡が入り、「ちょっといつもの仕事やらせてよ」と思わず言ってしまう。
火災旋風とは広域火災時に炎、あるいは熱風の竜巻が発生することであり、関東大震災時に両国陸軍被服敞跡の空き地に集まった約38、000人の命を奪った。長く寺田寅彦氏の前線通過に伴う竜巻と信じられていたが、1970年代に気象研究所の相馬清二氏(富士山の晴天乱気流の研究で有名。BOACボーイング707空中分解事故を著した柳田邦夫「マッハの恐怖」に詳しい)が横風と熱エネルギによるものであると看破した。
今回のTV番組では世界初とうたわれていたが、実験自体は相馬氏の指揮の下、1970年代に成功しており今回はその追試である。相馬氏が行ったのは屋外の1/100モデル(それでも一辺25m)で、なかなか火災旋風が現れずあきらめかけていたところに出現したため、スタッフ全員我を忘れ、3台あったカメラのシャッターを誰も押せなかったという幻の記録である。従って今回が世界初の映像と言うのは誇張ではないだろう。
その後衝立等を用いて人為的に火炎にスピンをかけた、火災旋風様燃焼形態の研究は盛んに行われて来たが、フラットな面で作為のない横風だけによる火災旋風の研究は足踏みしていた。それは相馬先生の後継者であった斉藤氏が渡米してしまったこともあるし、火災の実験が可能なのは建築研究所、消防研究所の風洞くらいしか無いと言う場所的な制約、また非常に金がかかる実験(今回の三日間だけで燃料代は約50万円)と言うことではなかったかと想像している。あの20分余の番組を作るのに実費だけで500万円、局スタッフの人件費を入れると一千万はかかっているのではないだろうか。
20分の番組ではもったいないくらいの出来栄えだったと私は思っているし、日本テレビとしても好評だったようで続編も将来検討してみたいそうだ。一般向けの番組で多少誇張された部分もあるが、興味本位の間違った事は伝えていなかったと思う。
さすがにTV局だけの事はあり、記録された映像はすばらしい。特に真上から写した動画は貴重である。秋葉原で買って来たCCDカメラだそうで、火炎がすぐ近くまで立ち上り一度で焼け焦げ、使い物にならなくなるだろうと思っていたが、最後まで頑張り通したそうだ。短時間の熱には意外に強いのかも知れぬ。
途中でスタッフの一人(小生)が、火炎域でないところに渦が発生している事に偶然気付いたとされ、その後着眼点ががらりと変わったが、他の皆さんは火炎ばかり注目していたようで、私は火の無い所に旋風が起こらなければ、TV局側の意図した映像が撮れないと手前側を少しばかり注視していたので、偶然ではない。煉瓦を冷やすために撒いた水が湯気となり、規則正しい動きが目に入った。興奮して真剣にアピールしたつもりだったが、TV放送ではかなりニヤケていたのが意外。正に得意満面で自分でもしまったと思う。
TV画像をここに出すと著作権侵害になりますが、自分が写っていればこちらにも肖像権があるのでこの2枚くらいなら黙認してくれるでしょう^_^; 左写真左 木原気象予報士、右写真小生の左上 斉藤教授、右木原気象予報士その後発炎筒を炊き、火炎を伴わない旋風の記録を次々に行い、相馬清二氏が行った実験のスケッチそのままの旋風が出現した時は、胸が熱くなる思いがした。自然の神に対する畏敬の念さえ抱いた。仕事をしていて感動することは一生の間に何度もある事ではない。この仕事を企画した日本テレビ、読売テレビの皆さんと、実験のため共にご苦労いただいた林上席研究員他建築研究所の皆様には心から感謝している。
実験を成功させたチーム
下段左より桑名ケンタッキー大学研究員、関本、斉藤ケンタッキー大学教授、木原気象予報士、林建築研究所上席研究員、王公安部四川消防研究所研究員(オブザーバー)、高橋建築研究所職員、小玉同職員
上段 日本テレビ、読売テレビスタッフ
実験が行われた建築研究所火災風洞前で
大成功に多くの笑みが浮かぶ。
実験の成功後、被服敞跡に建てられた慰霊堂に訪れた斉藤教授と小生
ここで3万8千人の方が亡くなられた。現在の横綱一丁目、二丁目の東側(図では上)が被服敞跡。両国国技館の北東にあたる。
TV収録中
木原気象予報士のインタビューを受ける斉藤教授
技術的情報はこちら
気象予報士 木原実さん (2006.1.5)
気象予報士の木原実さんは日本テレビのお天気キャスターとして有名らしい。本当のところ、私はお名前を存じ上げていなかった。しかし、人の顔を覚えるのが苦手な私でも、初対面でよくTVに出ている方と気付いた。
木原さんは実験の実況と、斎藤教授のインタビューを担当された。気象予報士は私も受けてみたい資格で興味があったため、面白い話が聞けた。いつまで寒いのか訪ねると、
「今の寒気は1月中旬には抜けるようです。その後の事は、誰も話したがらないんですよ」
「乾燥注意報が出ていますが、10年以上昔は異常乾燥注意報と言ったのですよ。いつも異常だから取ったのです」 そう言われてみれば確かに昔は異常乾燥注意報だった。
「冬になるとロシアの気象観測で欠測が良く出ます。これは向こうの観測員がウオッカを飲んで寝ているか、寒くて外まで観測に出ないためじゃないかと言われています」 冗談として聞いておこう。
回りの人の興味を引く話題を常に提供し、細やかでサービス精神が旺盛で話しを聞いていると面白い。
実験の取材中は、瞬時に状況判断し専門家ではなかろうかと思うほど的確な質問を繰り返えされる。私ならしばらく考えてしまうところで、回転が速いのに驚いた。
マスコミに接していると、こんな楽しい出会いもある。日本テレビの天気予報を見るときは、どうぞご贔屓に。
(2007年2月2日再会し、写真の使用許可をお願いしたところ快諾していただけました)