闘病記 2006年6月28日~7月9日 8月22日追記
この年まで何とか入院を免れていたが、とうとう悪運が尽きた。耳下腺に腫瘍ができ摘出手術を受けることになった。皮膚のすぐ下で見ただけでも判るくらいだから、ちょちょっと切って中身を抜くだけだと思ったのに、神経が通っていてそれを傷つけないように作業するのは大変らしい。手術2時間、全身麻酔、これは想像していたより大ごとだぞ。
手術後9日目、悪性腫瘍の可能性も消え順調に回復し無事退院となった。初めての入院体験は楽しいとは言えないが、好奇心を満足させるには十分な刺激だった。とにかく暇なので、闘病記をまとめてみた。
経緯
04年10月、風邪を引いた後に左耳の後ろが痛くなり、2、3日で痛みは治まったためそのまま様子を見たところ、左耳の難聴と耳鳴、耳下腺の違和感が残った。難聴と耳鳴は初めてではなく数ヶ月で自然治癒するので、今回もあまり心配しなかった。
05年3月、耳下腺の違和感がはっきりとしこりと感じられはじめたので、かかり付けの耳鼻科に行った。診断はいつもと同じ滲出性中耳炎。耳下腺についてはほとんど問題にされなかった。滲出性中耳炎の治療は結構辛い。小さな子供は別の方法があるくらいで、それも嫌でそれっきりその耳鼻科に通うのを止めたが、難聴は治らず、去年の秋頃から耳下腺の腫れが外から見てもわかる程度になり、これは自然治癒するようなものではないとあきらめ、別の耳鼻科に行ってみた。
そこでは滲出性中耳炎ではないと言われた。この手の難聴は神経系の問題らしく、ほとんどが原因不明らしい。まさかフジコ・ヘミングと同じ病になろうとは想像もしなかった。幸いなことに片耳なので日常生活には不自由しない。脳腫瘍の場合もあるからとMRIも撮ったが、その疑いが晴れただけ。耳下腺の腫れは慢性耳下腺炎だろうとの事で様子を見る事になる。06年4月、耳下腺の腫れは遠目にもわかる程度になり、一応念のため国立仙台医療センターを紹介された。
一日潰れると言う大病院、覚悟はしていたものの全所要時間は初診2時間、二度目のMRI検査2時間(前回は耳、今回は耳下腺)、2度目の診察3時間程度で大病院としては驚くほど能率的だと思ったが、私の都合もあり入院まで一ヶ月少々待たされた。この間の心境は複雑だった。切るならさっさと切って直してしまいたいという思いと、呼出は出来るだけ遅く、うまくして奇跡でも起こって自然治癒するのではないかという願い。
とにかく入院6日前に呼び出しの連絡があった。無論行きたくは無いが、混沌とした状態から開放されせいせいしたようなところもあり、ほんの僅かではあるが手術によってどんな経験をし、どのように変わるかちょっと楽しみでもある。今6月29日午後4時、24時間後はざっくり切られてあられもない姿を晒しているだろう。
手術
腫瘍が大きくなるにつれ、自分でもこれは外科的に処置する事になるだろうと覚悟していた。しかし、皮膚のすぐ下なのでスパッと切ってザックリえぐれば終わりだろうと考え、局部麻酔で、うまくすれば入院しないで可能な手術なのではないかと思っていたのに、入院して全身麻酔だといわれた。ドクターは良性腫瘍だろうと言うし、自分なりに調べても良性の可能性が高いと思ったのだが、念のため最悪の事も考えた。悪性腫瘍、癌だったら・・・骨に転移していたら・・・・・・骨を削る事はあってもすぐ死ぬ事もなかろうと先の事を考えるのは止めた。
入院してインフォームドコンセントがあった。手術は一時間半から二時間くらい。顔面を動かす神経が通っており、それを腫瘍から剥がすのに時間が掛かるらしい。傷つけるとビートたけしのような顔面麻痺が残る。その他にも耳の表面に行く神経があり、それはあまり重要ではないから邪魔なら切ると言われた。耳元に熱い吐息をかけられても気付かないわけか・・・ウ-ム・・・・この先そんな事があるとは思えないが。
手術室は快適な温湿度で快い。手術台はコンクリートかと思い込んでいたが、それは解剖台。それにしても狭い。寝返りなんか打たせないのだからこんなものか。手術中の事は何も知らないから書きようが無い。全身麻酔の手術と聞いて、真っ先に嫌だなぁと思ったのは尿管を入れること。入院してみると若く綺麗な看護師さんが多く、ますます嫌になる。ドクターに確認しすると、時間的に入れるか入れないかぎりぎりのところだとの事。「入れるにしても分からないときに入れますから大丈夫ですよ」 何が大丈夫なの? 若い^_^;男性が気にするのはみな同じ。 術後尿管は入っていないようだ。違和感も無いので触られなかったのだろう。手術を受けるのに尿管の心配をしているのだから、考えてみたら相当のんきな患者だ。
術後の家内や母を世話していたとき、体につながっているラインが一つ外れ、また一つ外れて行くのがとてもうれしく、回復の証が示され安堵する。その度に拘束が外れ、体もそれだけ自由になる。今回、病室に戻ったときは点滴、酸素吸入、足のエアーマッサージャーと三つ付いていたが、酸素はその夜に、エアーは翌朝に外れた。尿管が入っていないのはありがたかった。二日目、三日目は朝夕二回、一時間ずつの点滴だけとなり、手術翌日から動き回れ、その上熟達したオペなのか何をやっても傷が痛まずに助かった。
全身麻酔
麻酔して患部をちょこっと切る手術を想像していたので、全身麻酔と言われたときは怖気づいた。患部を切るのは怖くない。自分の体が自分でコントロールできず、他人に委ねると言う事がどうにも面白くない。その間何をされているかも全くわからないし、何をしているかもわからない。混濁した意識でとんでもない事をしでかすかもしれないと言う恐れ。たぶん無いと思うのだが、うわごとで妻以外の名を呼ぶ恐れ-こんなのはご愛嬌でも、場合によってはその後のサービスに影響するかもしれない。
その家内は今までに2度全身麻酔を受けている。いきなり奈落の底に落とされたように一気に暗転した場合と、フェードアウトするように徐々に視界が狭まって見えなくなるときがあったそうだ。どんな風になるか見て来いと言う。なんだか霊界を覗いて来るような気がしないでもなく、ちょっとおもしろそうだ。
手術台に上がると微臭がするガスを吸わされ「眠くなる薬を入れます」と点滴に何やら注入し、どうなるか、しかと見届けてやるぞと天井を睨みつけていたのだが・・・・・・・「関本さん、関本さん5時半ですよ、終わりました」と肩を叩かれるまで「・・・・」の間が完璧に無い。花畑が見えたとか、親戚の人がいたとかいろんな事を聞いたが、麻酔の技術が驚くほど進歩したのか、私の体は麻酔が効きやすい単純な作りなのか知らないが、本当にその間の記憶が無い。覚める時に暴れる人も居ると聞いた事もあるし、ろれつが回らなくなった人も知っている。しかし、麻酔科の先生の完璧な処置だったようで、部屋に帰ってくるときは、普通に話せるくらいまで回復していた。それでも麻酔の影響は残り、話していてもまどろんでしまうような状態が6時間ほど続いた。その後は12時キックオフのワールドカップサッカーを全部見たのだから、麻酔はすっかり覚めたようだ。
実に貴重な体験だったと思う。百聞は一見にしかず、人の話とずいぶん違うな、という感想。全然怖くないと言う事は自信を持って他の人に言える。ただし、気管内挿管で喉が痛い。家内は術後の痰で苦しんだし、愛煙家は痰が絡んで死ぬかと思ったそうだ。私の場合は、イガイガして風邪を引いたときのように喉が痛い。咳をすると切ってもいないお腹が痛い。看護師さんが言うには手術中に体を固定していたためだそうだが、この上切腹でもしていたらものすごい痛みだと思う。術後の咳だけは何とかならないものか。
術後二日ほどしても結構強い筋肉痛が残った。先生は「固定していたからですね」とあっさりと答えられる。これだけ筋肉痛の残る固定方法って? ひょっとして暴れたのか? それは夢の中の事(何の夢も見なかったが)として、深く考えるのは止そう。
後日談:手術後の私は妙にハイでおかしかったと家内が言う。部屋に帰ると三方ヶ原の戦いで負けた直後に絵を描かせた徳川家康を思い出し、身動きできないみじめな自分の写真を撮ってもらった。また家内の両親に元気な声を聞いてもらおうとベットの上で電話したが、普段の私ならそんな気の利いたことをするとも思えない。そのくせ執刀した先生が説明に部屋まで見え、切除部を見せてくれたらしいが良く覚えていない。
術後
手術から三日後にドレンチューブを抜き、四日後に抜糸、五日後には傷をカバーする物一切が外された。耳の下から約80mmの傷。これは結構迫力がある。肩で風を切って盛り場を歩けそうだ。
五日目に外出許可が出て一週間ぶりに我が家に帰った。病院から家に帰るには電車かバス、歩けば30分くらい。外出前に鏡を見ると結構すごい傷で、あまり大勢の人間の前には出たくない。歩いて帰るつもりだったがちょうどバスが来たのでそれに乗った。ありがたいことに空いていて傷を隠せる席に座れた。病院ではなんでもないこの傷は、娑婆では好奇の目で見られるに違いない。知っている人とは誰とも合わず、家までたどり着けた。愛犬は見てくれを気にしないようで尻尾を振って大喜び。
瘡蓋が取れればきれいな肌が出てくるのだろうが、それまでできるだけ人目から遠ざけた方が無難だろう。鍔付きの帽子がうまい具合にカモフラージュしてくれるので、当分このスタイルで歩くかな。
唾液腺を切るため、唾液が傷口から流出する事があるそうだ。このため手術翌日から三日目まで流動食で重湯、それからミキサー食五分粥となって、六日目に刻み食、全粥。絶食だった手術日を含め流動食の四日間は特に辛い。煎餅や羊羹など特に好物でもなかった物が食べたくなるのが不思議。ドクターから唾液が出やすい固いものやすっぱい物は食べてはいけないと指示されたので、固くなくてすっぱくなければよいのだろうと五日目に内緒で食堂に行き、ざる蕎麦を食べた。いつもなら感激する味ではないが、この時は実に美味かった。
病室について
病院の大部屋は私のような者にとっては大の苦手、それを考えただけでストレスから具合が悪くなる。家内や母が何度か入院し、何晩も付き添った経験があるから病室の雰囲気は大体わかる。家内と二人で高齢の母親に24時間付き添うのは特に神経をすり減らす。このような時、個室が取れれば精神的負担は半分以下になる。家内は私の性格から大部屋では無理で個室にしろという。付き添いの人がそう言ってくれるのだから、渡りに船で個室を希望し、タイミングよく入れた。
入院して回りの部屋と比べると、本当に天国と地獄。一人の占有面積は大部屋の3倍程度、専用の戸がつき回りから遮断されるのが本当にありがたい。消灯後も動ける。電化製品は電熱器具等を除いてパソコンでも持込を許可してもらえ、携帯電話まで使える。その準備が無かったため梃子摺ったが電話線からインターネットにも繋げた。
私がもしサラリーマンだったら個室にしたかどうかわからない。会社員なら休んでも誰かがバックアップしてくれるだろうが、私のような仕事をしていると、動けなくなってしまったら後が無い。手術だろうが入院だろうが最低限の仕事は続けなくてはならない。このためにも個室は必要になる。逆に言うと個室にさえ入れれば通常に近い状態で仕事ができるのである。
さてお値段だが、標準二人部屋の広さにユニットバスが付いて一日10,500円。一般的ビジネスホテルのツインの広さだから、ちょっと割高。このタイプのほかにバスなしで6,300円。少々不便だがこちらでも十分。最上級は4人部屋の広さで16,000円。大物で始終誰かが詰めているわけではないのでここまでは要らない。確かに個室料金は高い。誰でも支払える額では無いだろう。個室に入りたい人は、それなりの保険に入っておいた方が良いと思う。私の場合も足を出さずに済んだ。
注:個室だからといってパソコンや携帯電話が使えるわけではありません。耳鼻科、眼科病棟で重篤な人が居ないことも関係するかも知れません。パソコンは可でも携帯電話は不可というところがほとんどのようです。
暇つぶし
仕事を持ち込んだと言っても、四六時中それが出来るわけではなく、家にいるときよりも十分時間がある。読みかけの900頁の小説の読破、ホームページの更新、ご無沙汰してしまった方への手紙書き、等持ち込んだジョブはちょっと多すぎたかもしれない。小説は200頁程読んだ。ホームページも手紙も書きかけ。退院するまでに仕上げるつもりなので、少々焦る。
売店でスケッチブックを売っていた。どうせ暇なのだからと久しぶりに絵を画いてみようかと思った。絵が画きたくなって画くのは30年ぶりくらいなような気がする。さて、何を画くか? 北向きの病室は隣の病棟が見えるだけで面白くも何とも無い。かと言って他に適当な物も無く無機質の建物を写生する。これで2時間つぶれた。
病院内はほとんど歩き回った。手術のときは案内の看護師さんより先に立って手術室に向い、何で知っているのかと聞かれた。割りと夢中になれたのは一筆書き散歩コースの作成だった。今のところ歩測1,020mのコースが最長である。満員の外来待合室の間を抜け、食堂のバックヤードを通り、霊安室の前をかすめるコースで、夜はちょっと通る気がしない。ワンフロアに限定すると約520m。ロールプレイングゲームのダンジョン攻略みたいなものだが、テレビでチマチマやっているよりはるかに面白いし、何より運動になる。
病院の隣はフルキャストスタジアム宮城がある公園で、屋外を散歩するにはちょうど良いのだが外出は手続きが面倒なので、院内を歩く事になる。敷地一周10分程度かかる。裏にはシラカシの大木があり、秋になったらどんぐりを拾いに来てみたい。
家内は「本当にじっとしていられない人だ、私なら一日テレビを見てのんびり寝ている」というが、テレビは見る気がしない。テレビとは所詮家庭内の話題提供機でしかないと思う。特にワイドショーが興味の対象外で、こんな生活をしていると何処かの誰かが誰かを殺した、何の某が離婚したなんて話は本当にどうでも良い。時には結構面白がっていたのが不思議でならない。付けっ放しにして、耳障りにならないのは教育TVかな。
ゲームもしかり。入院当初はパソコンでしばしゲームをしていたが、数日で止めた。所詮ゲームは暇つぶしでまとまった時間を埋める物には成り得ない。
医療センターの怪 (2006.8.22)
その1
良くわからないことはどこでも起きる。でも病院はできるだけわかりやすくしてほしいと思う。入院して数時間方角がまるでつかめなかった。その原因は、まさしく案内図にある。西病棟が左で東病棟が右、その上は北病棟で然るべきなのだが、何故か南病棟。増築によって整合が取れなくなったと理解はできるのだが、もう少し何とかしてほしいものだ。一病棟、二病棟の方がまだましだ。
その2
初めに医療センターを紹介した開業医への返信。何かおかしいと思いませんか? 待史? 私の記憶では侍史だと思う。患者を待たせる大病院なので、待たせたお使いなのだろうか? (余計なお世話だが、この件に関してはご意見箱に投書しておいたので、いずれ直るだろう)
その3
今年初め、光ヶ丘スペルマン病院(我が家行きつけの中規模病院)から乳児が連れ去られた。犯人がその子を置き去りにしたのが写真左側の外注業者が使う棟。そこから右に辿り、50mも離れていない所に救急外来入り口がある。犯人は少しでも早く子供が保護されるようにとの心配り?からそこに置いたと思われるのに、どこでどう言う手違いが生じたのか運ばれたのは別の病院。
詳しい事は知らないが、情報が警察の無線と電話を経由して、不慣れな夜間警備員に伝わってしまったのではなかろうか。何も言わず運んでしまえばNOとは言わず、手厚い看護を受けられたと思う。
この誘拐事件の時は大騒ぎだった。警官が拙宅にも来て、藪の中を捜索していった。ついでに草刈もしてくれないかな、と思ったのにあっという間に捜査終了。赤ちゃんが無事保護されたのでこんな冗談も言える。本当に良かった。
後日談 (2006.8.22)
術後一ヶ月、縫合した跡の肉は未だ盛り上がっているが、切開部分の上に紙が一枚乗っているような違和感も消え、痛くも痒くもなく、唾液も正常に出ているようで腫瘍の切除に関しては完治したようだ。
この闘病記を読んでくださった方から、不良患者とか、「ずいぶん楽しんできたんじゃないの」と言うような事を言われた(ーー゛) 患者が落ち込んでしまうと、回りの者はもっと辛い。空元気にしろ楽しそうにできると言うことは不幸中の幸いである。
一方、それ程心配すること無いよ、と思うほど労ってくださった方もいらっしゃり、ありがたかった。本人が大丈夫と言ったら「あっ、そう」と心配もしない輩は、今後の付き合いについて一考しなければならない。人が病の時は、形だけでも同情した方が良い。
こんなのは奇病の類かと思っていたところ、旧知のN氏も同じものを患ったとを聞いて驚いた。症状、切開部分、術後の経過もほとんど同じ。N氏からは術後の回復の様子を聞き、ほとんど心配無いことも判って安堵した。けれどN氏はすっぱくて美味しい物を食べると、耳下から汗が噴出してくるのだそうな。術後しばらくは唾液腺がふさがらないから、固いものすっぱい物を食べてはいけないと私はドクターから言い渡され、それを守ったおかげで何とも無いのに、さてはN氏、我慢できなくなって美味しいものを摘んだかな? けれども同病相哀れむ、優秀な科学者やエンジニアが罹る病であるという認識については、完全な一致を見た。
謝辞:独法国立病院機構 仙台医療センターの皆様には大変お世話になりました。大病院は冷たいと言う先入観は完全に払拭され、熟達した施術、暖かいケアのおかげで何の不安も無く回復できたことに対し、御礼を申し上げます。困った患者ですぐに行方不明になり、お手数をおかけしたことをお詫びいたします。
注:本文は私の耳下腺腫瘍に関する経過を記したものであり、同様の症状を持つ方の判断材料にはなさらないようにお願いいたします。専門医の受診を強くお勧めいたします。